スキルのかけ算
「スキルのかけ算」という言葉をたびたび耳にする。この言葉を聞くたび、「ああ、またか」と、複雑な感情を抱いてしまう。正直、この言葉は好きではあるが、その使われ方には違和感がある。
「スキル」という曖昧で捉えどころのないものを、「かけ算」という多くの人が理解しやすいツールを使って一般化し、定義しようとする試みとしては悪くない。しかし、残念ながらこの言葉がそうした意図で使われている例を、少なくとも俺は見たことがない。たいていは単なるバズワードとして使われているだけのように思える。
もし「かけ算」という言葉を使うのであれば、その比喩に対して最低限の整合性を持たせるべきだろう。定義を見たことがないのであれば、自分で定義し考察しようと思う。この記事の目的はそれだ。
これからの説明は、「こう定義されている」、「こう定義すべき」、「この定義に従うべき」といった話ではない。くだらない提案のひとつとして受け取ってほしい。
スキルの定義
まず、「スキルのかけ算」を考える前に、「スキル」そのものを定義する必要がある。
ここではスキルを、単一の能力を表すスカラー値とする。「単位スキル」あるいは「スキル成分」とも呼べる。そして人は、個の単位スキルからなるスキルセットを持つ。このは次元ベクトルである:
ここではそれぞれがこれ以上分解できない単位スキルである。RPGゲームにおける、攻撃力・防御力・素早さのような個別の能力値をイメージするとよいだろう。ただし、現実世界においてこれらの成分を完全に独立に定義することは困難である。
スキルのたし算
まずは「スキルのたし算」について考える。スキルセットがベクトルであるため、スキルセット同士のたし算は形式的には可能である:
しかしこの「スキルのたし算」は、現実世界においてはほとんど意味を持たない。たとえば中学レベルの数学力を持つ人間が2人いたとして、彼らのスキルセットを足しても、高校レベルの数学の問題が解けるようにはならない。
スキルのかけ算
本題である「スキルのかけ算」について、定義を試みる。巷で言われる「上位のスキルを2つ持てば上位になる」といった短絡的な「かけ算」とはアプローチが異なる。
ここでは「スキルのかけ算」をスキルの次元体積と考え、スキルセットに含まれる各単位スキルの積として定義する1:
は、そのスキルセットを持つ個人が解決できる問題の範囲を意味する空間の次元体積と解釈できる。
この定義における「かけ算」は、相乗効果を期待するものではない。あくまでも、解決可能な問題の「量」を示す指標である。問題を解決することの「価値」は考慮されていない。
なお、「上位のスキルを2つ持てば上位になる」は、2つのスキルが完全に独立し相関がないと仮定すれば、このスキルの積の定義においても成り立つ。
スキルの最大値
スキルのたし算が現実的にあまり意味を持たない一方で、複数のスキルセットを統合的に捉える上で有効な考え方がある。それが、スキルセットの最大値である。複数のスキルセットの最大値を次のように定義する2 3:
あるチームにおいて、各個人がスキルセットを持つとする。このとき、チーム全体として解決できる問題はによって導かれるスキルセットで解決可能な問題と一致する。互いのスキルを補完し合うことで、より広範な問題に対応できるという解釈ができる。
問題解決とスキルの充足条件
特定の問題を解決するのに必要なスキルセットをとする。この問題を解決するための条件は、スキルセットがのすべての成分以上であることである。つまり、次のように表現できる:
この条件が満たされれば、その問題は解決可能である。
さらにこの考えを応用すれば、特定の能力を持つ人がどれほどのスキルをカバーできるかを明確にできる。たとえば、AndroidアプリとiOSアプリの開発に必要なスキルセットをそれぞれとすると、両方の開発が可能な人は、少なくともを満たすスキルセットを持つことになる。
スキルのかけ算と価値
ここで再び「スキルのかけ算」に話を戻す。元の文脈では、おそらくスキルのかけ算により個人の市場価値を高めよう、という話だったはずだ。
では、この「スキルのかけ算」がどのように価値に結びつくのか。まずスキルセットを入力とし、価値をスカラーで出力する関数を考える。
問題を解決することの価値は、需要や供給などによって決まるため、その難易度とは必ずしも一致しない。ある問題に必要なスキルセットをとすれば、その問題を解決する価値はとする。このとき、価値関数は次のように定義できる:
なぜ各単位スキルに係数をつけた単純な総和ではなく積分で定義するかというと、スキル同士の組み合わせによるシナジーを考慮するためだ。空間として扱うことで、それが可能になる。この積分は、スキルセットによって解決可能な問題の「量」に、それぞれの問題の「市場価値」を掛け合わせ、総計したものだと解釈できる。
このときが本質的に重要な値となる4。は需要や供給などの要因によって定まる。たとえば、需要が高く、供給が少ないときに大きな値となる。
需要や供給は時代によって変化するため、も時代によって変化する。今現在価値が高くても、将来それを維持できる保証はない。かつては「早く正確に計算する」というスキルセットに価値があった。しかし今では、電卓を持つ小学生でも同等の成果を出せるため、そのスキルはほとんど価値を持たない。
2025年現在、生成AIにより解決できる問題の領域が急速に広がっている。これは、多くの人のスキルセットの価値が相対的に下がっているということでもある。これまで価値があるとされてきた、「ゼネラリスト」的スキルセットは、生成AIの進展により中途半端で無価値なものになりかねない。
まとめ
- スキルを単位スキルとし、個からなるスキルセットを定義した。
- たし算は形式的には可能だが、現実世界での意味は乏しい。
- かけ算は次元体積と定義され、問題解決の量を示すものとした。
- スキルの最大値と問題解決のための充足条件により、スキルセットの応用を説明できた。
- スキルセットの価値は、それぞれの問題解決の市場価値を積分して求められる。
- 問題解決の価値は、需要と供給によって常に変動する。
最後に
「数遊び」、「言葉遊び」に付き合ってくれてありがとう。この記事は、単純な定義を目的としていたため、多くのものを犠牲にしている。その代わり、簡単な算数で説明できるようになっている。
この記事を読んで「くだらない」と思ってくれたのなら嬉しい。それはつまり、「スキルのかけ算という言葉を聞いた俺の気持ち」に共感してくれたということだろうから。もちろん、この記事を読んで「ためになった」と思ってくれても嬉しい。
「スキルのかけ算」という言葉は、そのシンプルさゆえ、多くの人に受け入れられやすい魅力がある。しかし、その言葉が持つ本来の意味合いや影響を説明できないのであれば、とても危険だと考える。
もし、スキルの掛け算という言葉が、色々なスキルを身につけるために労力を割き、不要なコレクションを集めるのを促すのであれば、俺は止める方に加担する。
このような、言葉遊びだけでなく、伸ばすスキルの選び方と生存戦略などをまとめた記事を書こうと思っている。やる気がでれば。