高専7年間を振り返って
2022年3月に長岡高専の専攻科を卒業しました。高専5年間と専攻科2年間の合計7年間も同じ学校に通いました。
この記事は中学生、高専生、専攻科生を対象に書いています。
中学時代
高専の存在を知ったのは中学1年生のときです。このときは漠然と「へ〜、そんなのあるんだ、楽しそう」くらいでした。遠くて実家から通えない、ある程度学力が必要という理由で「まあ俺には関係ないか」と思っていた気がします。ちなみにこのときの学力は頭が悪いとされている中学校の真ん中付近で、成績表は平均3を下回っていました。数学と理科の点数が高く、英語や国語、社会科は壊滅的な点数でした。
中学校生活は理科部という、やる気のない部活に入っていました。コインゲームやコイルガン、スタンガンなどの変なものを工作していました。あとは、カードゲームのショップ大会に毎週出ていました。
3年生になると受験生ということもあって、夏頃から塾に行くようになりました。上記で説明空いた通り、僕の内申点は低かったので、そこそこの公立高校を目指していました。11月頃に塾の先生から高専を勧められました。すっかり忘れていた高専のことを思い出しました。高専は公立高校と受験日が異なり2月に行われます。なので 高専受験 → 落ちたら公立受験 のように両方受験することができました。(今はどうなってるかわかりません。)もし高専に受かったら行きたいと思っていたのでチャレンジすることにしました。長岡高専には5つの学科がありますが、パソコンや電気回路に興味があったので電子制御工学科を第一志望にしました。倍率が一番高かったのですが、そんなこと知らないで選びました。
数学と理科は元々好きでやっていたので点数は取れました。英語は長文の対策を中心に効率受験勉強していたので、点数は取れました。社会科は地理が得意だったのでどうにかなりました。国語は勘を鍛えました。得意科目は好きに勉強する、苦手科目は塾でコツを覚えました。とまあ、こんな感じでギリギリ高専に入学できました。
高専の合格発表の日、中学校の先生からは「第一志望の学科に受かっているようだが、受験番号は本当にこれで合ってるのか?」と疑われ親にまで電話で確認されました。
受かることがおかしいくらい成績が低かったことがよくわかります。
高専 本科
1年生
家から通える距離に高専がなかったので、寮に入りました。長岡高専の寮は当日体育会系の寮みたいに、先輩には頭を下げ、大声を出すなどのことをしていました。今ではそのような悪しき伝統は少なくなりました。最初は毎週土日に実家に帰省し、寮に戻りたくなかったです。今ではあれがあったから同級生と仲良くできたし、いい思い出だと思っています。他にも寮にはイベントがあったり楽しかったです。
部活は電算機部という主にプログラミングをする部活に入りましたが、3日で幽霊部員になりました。中学の時と同様に部活にはまともに入っていません。なので基本的には寮でだらだらパズドラとかをして、友達とワイワイしてました。もちろん勉強はしていません。
夏休みの時期が高校とは違い、寮生ということもあって地元の友達と話すことはなくなりました。しだいに連絡もしなくなりました。
高専は1年生のときから実験という科目でレポートを書きます。大学1年生が書くような簡単なレポートですが、書かないと留年するのでちゃんとやってました。やらなきゃいけないことは最低限やる能力はあるのだなと思いました。
小学生のときから勉強をする習慣もノートをとる習慣もなかったので成績は底辺でした。底辺すぎて担任の先生から他の高校に転校する道も紹介されました。「どうにかなる」の精神で生きているので大丈夫だろと思っていました。元々できなかった国語や英語、社会科は先生から単位を錬金してもらいなんとか進級しました。成績は下から2番目でした。ちなみに1番下の人は留年しました。
2年生
寮生活は1年生だけが厳しくされるので2年生になるとよりいっそうだらだらした寮生活が始まりました。この年はポケモンGOがリリースされゲーム生活が加速しました。
2年生になるとC言語によるプログラミングの授業があり、モノづくりが好きな僕は夢中になりました。課題はすべてこなし、テキストもすべて読みました。情報オリンピックの予選に出て敢闘賞をもらいました。「もうちょっと調子が良ければ本戦に出られたのになー」と思いましたが、授業外の勉強をしたわけでもないのでこんなもんだと思います。
成績はビリではなかったものの下から10番目にはいました。相変わらず単位を錬金してもらい進級しました。
文系科目は簡単で、救済処置により合格することがほとんどです。理数系科目はそこまで甘くはないので最低限の能力がないと単位を落としてしまうかもしれません。なので文系科目が苦手な僕は救済処置で生き延びました。
3年生
3年生になると社会科がなくなったり、英語以外の文系科目の比重が小さくなります。一方で専門科目の割合は増加します。専門科目は周りより得意だったので成績が伸びました。だいたい半分くらいになりました。高専にはこういう感じにいきなり成績が上がったり下がったりする人がいます。専門科目は適当な授業よりは楽しかったです。このときの僕は数学、物理、情報が楽しかったです。
3年生では留学生チューターというものになりました。タイから来た留学生に寮での生活などをサポートする役割です。誰も立候補しないので、お金がもらえるという理由で立候補しました。最大で月7000円くらいもらえます。「お前みたいな英語ができないやつができるわけないだろ」って思われるかもしれませんが、日本の高専に留学してくる外国人は頭がよく日本語も流暢です。むしろ語彙力が乏しく、やさしい日本語しか話せない僕は適任だったかもしれない。これがきっかけで他の留学生と話す機会ができたり、国際なんちゃらコンテストに出たりしました。結果は優秀賞(2位)でした。
長岡高専では3年生から、学園祭で食品を販売できます。近くの大学と同時に行われた学園祭ビジネスコンテストがあり、賞金があるという理由で参加しました。僕は原価が安く簡単で人気な唐揚げを販売しました。利益は2番目でした。超楽しかったです。
4年生
4年生では名物教師が物理の授業を担当しました。テストは難しく、しっかり理解しないと点数が取れないような授業をします。それもあって、相対的に物理が得意になり楽しかったです。
学園祭は先輩の引き継ぎで油そばを販売しました。僕の店だけ質も売上も桁違いでした。学園祭は年に1度の大きな楽しみでした。
フラー株式会社の現役エンジニアが毎週2時間くらい長岡高専でアプリ開発のイベントがありました。これは3年生の後期からやっていたのですが、僕は4年生から参加しました。内容はAndroid、iOS、Web、サーバーに分担をわけて高専のためのアプリを作ることを目標にするものでした。僕はAndroidを担当しました。アプリは完成しませんでしたが楽しく、刺激的でした。
夏頃から進路を考え始めました。高専は主な進路として就職、大学編入、専攻科進学があります。自分は高専で自由に適当に過ごしていて就活でできるアピールもないし実感もわかなかったので進学を選びました。僕は自分でも高専が向いていたので第一志望を専攻科にしました。専攻科は席次上位かつTOEICのスコア400以上で推薦でいくことができます。僕は↑でも書いた通り席次は低く英語はできないので筆記試験で挑戦しようとしていました。
5年生から始まる卒業研究の研究室選びがありました。プログラミングが好きという理由で情報系の研究室である画像処理を専門とする研究室に配属されました。ディープラーニングとか重力波とかかっこよさそうな研究室は人気で席次が高い人が入っていました。
5年生
専攻科の受験がありました。科目は数学と専門3科目、TOEICスコア等で評価されました。TOEICスコアが305であまりにも低く、周りとの差が最初から大きかったです。数学や専門科目をほぼ満点が取れるくらい勉強して合格しました。勉強方法は時計と過去問を用意して実践練習を10回以上した感じです。数学や専門が得意で良かったです。
高専では5年生で研究があります。研究のレベルは学科や研究室によってさまざまですがだいたい大学4年生がやるやつと同じような感じだと思います。研究内容は歩行者のために周囲の車両を検出するというものでした。基本的に研究せずにダラダラ過ごしていて正月に思いついた手法で研究発表しました。それなりに評価はされました。
他には4年生のときと同じように、学園祭をしたり、フラーとのアプリ開発をやっていました。楽しかったです。
20歳になりましたが寮は低学年もいっぱいいて酒の持ち込みは禁止でした。僕が持ち込んだ酒やその空き瓶が見つかり、寮から追い出されそうになりました。本科卒業までの間は許されましたが、専攻科は一人暮らしをすることにしました。
5年生の冬から新型コロナが出てきて卒業式がなくなりました。卒業式のあとの教員たちとの懇親会が楽しみだったので残念でした。
高専 専攻科
1年生
専攻科からは一人暮らしでした。部屋が散らかりましたが、食事はちゃんと取ってました。
コロナ禍1年目ということもあり適当に課題を出してたら単位がもらえてラッキーでした。学園祭での飲食物の販売が出来なくなったのは残念でした。
5年生のときに全国高専ディープラーニングコンテスト(DCON)に研究の内容でエントリーしていて、本選が近くなったこともあり、研究をしました。専攻科では実用性が高いという理由で自転車後方から接近する車両の検出を行いました。DCONの本選の結果は4位でした。色々な人と関わり、チャレンジできて本当に良かったです。DCONのときにフラーの当時の社長がメンターをしてくださったこともあり、フラーとの関係が強くなりました。
DCONが終わってちょっとたった頃から就活を始めました。一時期、起業も考えましたが色々あり就活を選びました。一度就職してからも、修士への進学や副業、起業などもできると思い、自由で成長できる企業を中心に就活を始めました。夏から就活を始め、冬に内定をもらいました。就活の時期はすごく早かったです。
その後ものんびり就活をしていたら、フラーの11歳上の先輩から誘われ、フラーを受けました。3月からAndroidエンジニアとしてアルバイトを始めました。フラーのアルバイトの話しは、某ITベンチャーで約1年バイトした話でまとめてあります。
2年生
6月にフラーからの内定をもらい承諾しました。フラーでのバイトも引き続きやっていました。
やることは基本、バイトと研究でした。締切ギリギリまで何もしない性格なので、細かい頻度で学会に出させられました。このおかげで研究の進捗が生まれました。ありがとう指導教員。
今思えばバイトと研究以外は遊んだりしてるだけでした。意外と書くことがないのだなと思いました。
卒業後
現在僕はフラーのAndroidエンジニアの新入社員です。新幹線で社長の隣に座りこの文章を書いてます。研修中に偉い人や先輩、同期といっぱいお話できる楽しい職場です。自然とエンジニアとして頑張ろうと思えてきます。頑張ります。
実はまだ論文を書いてます。専攻科のときにした研究の内容を学会投稿しようとしています。うまくいくかわわかりませんが挑戦します。